たびたび「???」となる言葉の1つに
「ふつうはさ~」
というのがあります。類似用語として、
「一般的には~」
「みんな◯◯だっていうよ~」
と言うものもございますね。これらすべて「え?なにそれ?普通(もしくは一般的、或いはみんな)ってなんだよ」と思うんですね。プライベートな話をしているとき限定ですけど。
それが例えば、仕事の話で、他業者の事例や多くの類似ケースを求めているならば別ですよ。「サイト流入が減少傾向の時は、◯◯で検証&原因特定するために、ふつうor一般的orみんなは△△対応をします」的なことはあります。対応例の1つとして、よくやることを語るのに「ふつう」「一般的」「みんな」等のワードを並べることは多々ありますとも。
うん、でもさー、それって数学っぽく公式があったりとかーやり方が限られてる場合じゃないですかー。なんつーか、仕事の答えを導き出すパターンってのは、1つ又は数個あるぐらいじゃないですかー。そういう時は原因特定するために影響の大きそうな要素から1個1個シラミ潰しにやっていきますよー。
じゃなくってー、わたしが言ってるのは、同じ本を読んだときに違う感想文になったり、同じ映画を一緒に見ても違う感想を持つのと同じことですよー。小学生の感想文だって同じ教材使ってるのに個性豊かな作文になるじゃないですかー。そういうことなんですー。プラベなことに、答えは1つじゃなくていいんですー。
人間は三者三様、十人十色、百人百様、千差万別。個々人で考え方や感じ方が違うワケです。それを「ふつう」「一般的」「みんな」という個性をぶっ潰すような言葉に押し込められるのが、わたしとしては非常に不愉快なんですよね。だってそうでしょう?相手の「ふつう」は、わたしの「ふつう」ではないんです。人それぞれ見えている世界が違うから、相手の世界の「一般的」とわたしの世界の「一般的」が異なる場合だってある。生きてきた地域・生活の仕方が違うんだから、出会ってきた「みんな」も違うし、だったらさー相手の言う「みんな」に共感できなくてもいいんじゃないのかなー、なんて。
わたしは言い合いが好きです。バカでもアホでもいいんです。思ってることを伝え、「この人はこういう考えをする人と理解してもらいたい」だけです。考え方に共感や理解を得られなくても、「この人はこういう考えをする人と理解してもらいたい」とわかってもらいたいんです。だから話すんです。
しかし、話の途中で
「ふつうはさ~」
「一般的には~」
「みんなに聞いてごらんよ」
という言葉を出された瞬間、ああこの相手には伝わらないんだろうな、と悲しくなります。相手のふつう・一般的・みんなというモノサシは、目の前のわたしのモノサシではないんです。でもいくら伝えようと思っても、他人のモノサシを出してくるってこたぁー、わたしの言葉を受け入れるつもりがないのだろう、と。もしくは面倒だから話を切り上げたいのだろうな、と。でも、相手のモノサシはどこにあるの?
他人に迷惑をかけなければ、ふたりごとに、世の中のふつう・一般的・みんなは不要です。わたしがふつうじゃなくても、一般的じゃなくても、そのへんのみんなと違う価値観でもいいんです。わたしは相手がふつうじゃなくても、一般的じゃなくても、そのへんのみんな違う価値観でもオールOKなんです。だって相手は相手しかいないし、相手を選んだのはわたしだし、そういうよく理解できないけど尖ったところが魅力の1つだったりするわけでしょう?それがなんだ、やれふつうは、だの、一般的には、だの、みんなはどうこうだの言って切り返そうとするあたり、話をしていて辛くなるんです。「いやいや違うんだよ、目の前で話してるのはふつうさんでも一般的さんでもみんなさんでもない、わたしなんだよ。あんたは誰のモノサシで話してんだい?」ってね。
夫婦っつーのは、そういうもんじゃないのか?と思ってるんだけど、時々よくわからなくなるんだなぁ。他人のモノサシという公式に当てはめようとするたびに、そうじゃなくってさーって思うんだなぁ。わたしはわたしの価値観で話してて、そういうときは一般論なんて求めてないんだもの。
他人のものさし
自分のものさし
それぞれ寸法がちがうんだな
ってみつをさんも言ってますわい。それでいいじゃない。見方によっていろいろな捉え方や考え方があったって。それを受け入れる・理解せずとも認識するのは悪いことじゃないと思うんだなぁ。
って、相手のモノサシが「ふつう」「一般的」「みんな」っていう言葉をタテにするタイプのモノサシってこともありうるんだなぁ。うわぁ、そうか、そういうことなのか。こんなタイプが世の中にいてもおかしくないなぁ...
終わり。
(*・ω・)つ 沖縄食べ歩き情報もどうぞー♩